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小村寿太郎

飫肥出身の著名人・小村寿太郎 小村寿太郎は飫肥出身の明治期の外交官です。
安政2年(1855年)生まれ、文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学で法律を学んだ後、帰国後は外交官として活躍しました。
外務大臣のとき、日露戦争後の1905年(明治38年)、ポーツマス会議に日本全権として、ポーツマス条約を調印したことで歴史に名を残しています。
外交官としての小村寿太郎 明治13年アメリカから帰国後14年外務省の入省、21年翻訳局長に就任。29年外務次官就任。31年アメリカ,33年ロシア,34年清国の各公使を務める。第1次桂太郎内閣の外相となり日英同盟(1902)を締結。また,日露戦争への道を進める「小村外交」を展開。
ポーツマス講和会議(1905)では全権となって早期終戦を実現しましたが、戦勝に酔う国民の強い非難の的となってしまいました。
39年枢密顧問官・イギリス大使を経て,41年より第2次桂内閣外相。韓国併合(1910)を実施。同時に条約改正(1911)にも成功し関税自主権の確立に貢献しました。
明治期の日本外交を代表する人物として,その道は極東の日本勢力圏化のための現実的な外交路線を徹底して追求するものでありました。
44年8月の内閣交替で外相を辞め,同年病没。

小 村 記 念 館

正しくは、国際交流センター小村記念館 小村寿太郎の没後80周年を記念して、その功績を後世に伝えるとともに、国際化に対応できる人材育成や文化活動の拠点をめざして、平成5年(1993年)1月16日に開館した、とあります。
建物は、小村記念館と国際交流センターからなっていて、交流センターの方は、小規模ながら、国際会議ができるようになっているようです。
同時通訳設備などもあるのでしょうか。

小村記念館の入り口付近です 建物はなかなか立派にできていて、建築面積は1034平方mだそうです。
日南市は、ポーツマス条約が縁で、米国ニューハンプシャー州ポーツマス市と姉妹都市提携を結んでいて、同市との交流があるようです。
展示 「ニューヨーク郊外の写真」 講和条約調印後、小村全権らは、ポーツマスを引き上げて、ニューヨークの郊外、オイスターベイの「夏のホワイトハウス」(サガモア・ヒル邸)にルーズベルト大統領を訪問しました、そのとき撮影した写真とあります。
小村寿太郎がどこにいるか判然としませんが、大仕事を終えてさぞほっとしていたことでしょう。

館内の展示 館内には、小村寿太郎の生い立ちから亡くなるまでの生涯にわたる事跡に関する展示があります。
何しろ数少ない地元の有名人とあって、展示にはかなり力が入っています。

小村寿太郎生家

生家の入り口です。 小村寿太郎は、飫肥城下の町役人の長男として現在の生誕碑のある場所で生まれました。その後、小村家が破産したため、明治時代後期に、生家は振徳堂(旧藩校)の裏に移築され、さらに、大正10年(1921年)に現在地に移築されました。
生誕地は城下の商業地区にありますが、移築されたこの地区は伝統的建物保存地区の中にあり、その意味では本来の生家の雰囲気とはかなり違った所に移されたことになります。

入り口から見た生家です。 周囲が飫肥重要伝統的建造物保存地区になっており、実に落ち着いた雰囲気の中にあります。
石垣も立派なものです。
生家の全景です。 現在地に移築されたのが大正10年(1921年)ですが長い間空き家になっていたため老朽化が激しく、市が改修整備して、平成16年(2004年)4月から公開しています。
小規模ながら庭園もありますが、これは恐らく最初の建物にあったものとは相当異なっているものと思われます。

”本物”の生家の古い写真です。 昭和16年の小村侯30年祭の時に展示された写真とのことです。
いつ撮影されたのかは説明がありませんが、かなり老朽化が激しい様子が見てとれます。現在の生家の様子とは大きな差がありますが、こちらの方が実際に近いのかもしれません。家業が傾いてかなりの借金が小村の肩にかぶさって、彼自身が大いに借金の返済に苦しめられたと言われています。
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