追 手 門

追手門は飫肥城の要の門です。  現在のものは復元されたコンクリート製で、それ自体は歴史的建造物としての価値は乏しいですが、周囲の建物や樹木の景観とマッチして往時の雰囲気をよく伝えています。
小規模な掘割がありますが今は水はなく空堀になっています。
城の内側から追手門をみたところです。 (以下は看板に書かれていた案内説明です)
この追手門は、周辺の石垣遺構や主柱の根石などを検証し昭和53年に復元されたものです。
木造渡櫓2階建、屋根までの高さ12m、1階は21.6平方m、2階は44平方mで門の巾は1階7mあります。
柱や梁にはこの地方の特産である樹齢100年以上の飫肥杉が使用され、釘は使わない「組み式」で作られています。

追手門を入ったところです。 このあたりは立派な石垣と真っ白な壁が城の雰囲気をよく出しています。
壁に空けられた”穴”は銃眼。もちろん矢も使ったことでしょう。

市街から追手門に通ずる道路です。 この道の左側に藩主の住まいであった豫章館があり、右側には小村寿太郎記念館があります。
往時は武士が足繁く往来していたメインストリートだったことでしょう。

旧 本 丸 跡

ここが旧本丸跡です 旧本丸跡となっていますが、写真の通り、本丸に上がる石段があるだけで他は何もありません。大きな杉の木が立ち並んでいるだけです。
「旧」といわれているのは、寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)と3度の大きな地震で地割れが発生し、他の場所に移転したためです。「新本丸」は隣接地の現在は飫肥小学校のグラウンドになっているところです。

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左の写真が「新本丸」の飫肥小学校グラウンドです。 もちろん、グラウンドには当時を偲ばせるものは全く残っていません。
旧本丸は高台の上にありますが、新本丸は平地にあります。平地でも不都合がなくなったのか、飫肥城を取り巻く環境に大きな変化があったのでしょうか。

松 尾 の 丸

松尾の丸の玄関 松尾の丸は江戸時代初期の藩主の御殿を再現したものです。昭和54年に飫肥杉の千年ものを使って再現されました。 建物は書院作り、庭は枯れ山水で作られています。
建物は延床面積約800平方mで、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など20室以上の部屋があります。

御 座 船 中に御座船の展示がありました。藩主が舟遊びにつかったものでしょう。
しかし、どこで舟遊びをしたのでしょうか。飫肥城の横には酒谷川が流れていますが、小さな川でとてもこのような船を浮かべられたようには見えません。隣の油津まで行けば海はありますが、こんな小さな船では危険です。
可能性があるのは、堀川運河でしょうか。あそこだったら舟遊びができるかも知れません。当時、あの運河ができていればの話ですが。

豫 章 館

豫章館の主屋 豫章館は、飫肥藩主伊東祐帰が明治2年(1869年)に城内から移り住んだ屋敷で、庭の北隅に大きな楠木があったことから豫章館と名付けられたとのことです。
この屋敷は大手門前に位置する飫肥城下ではもっとも格式の高い武家屋敷です。
屋根はもとは萱葺きでしたが、昭和初期に瓦葺きになりました。

枯山水の庭園 主屋の南面のある枯山水の庭園です。広さは約6500㎡あります。
豫章館の全体は、昭和58年(1983年)に伊藤家より日南市に寄付されました。
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